大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

福岡簡易裁判所 昭和38年(ろ)895号 判決

被告人 大塚久

主文

被告人は無罪。

理由

本件本位的訴因は「被告人は、業務として自動車の運転に従事する者であるところ、昭和三十八年一月二日午後六時十分頃、普通乗用自動車(福五せ二五〇四号)を運転し、北九州市小倉区曽根方面より同区城野方面に向け、同一方面に向け進行する他の普通乗用自動車の後方約二十米の地点を追従しながら、時速約五十五粁にて進行し、同区葛原二、九六九番地先国道三差路にさしかかつたのであるが、自動車運転者たるものは、その運転中は常に道路の前方左右を注視し、障害物の早期発見に努めて、事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務を有するに拘らず、これを怠り道路左側と、先行する前記自動車にのみ注視し、道路右方に対する注視が充分でなかつた過失により、前記三差路にさしかかつた際、右側道路より国道を横断すべく歩行していた山本秀雄(当六十九年)の発見がおくれ、直前約七・五米に接近して初めて認め、慌てて急停車の措置を講ずると共に、ハンドルを右に切つて衝突を避けんとしたが及ばず、自車左前部を同人に衝突せしめて同人を路上に転倒させ、因つて同人に対し、治療約二ケ月半を要する右大腿左下腿骨折等の傷害を負わせたものである。」というのであり、予備的訴因は「被告人は自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和三八年一月二日午後六時一〇分頃、普通乗用自動車を運転し、時速約五五乃至六〇粁で一級国道一〇号線を先行する普通乗用自動車の後方約二〇米に追従し、北九州市小倉区葛原二九六九番地先三差路交差点の東方約四〇〇米の地点にさしかかつた際、反対方向より進行してきた数台の自動車が前照灯を減光しなかつたため、視力を奪われ一時前方の注視が困難な状態に陥つたので、かかる場合自動車運転者としては、直ちに一時停止若しくは最徐行して前記自動車と擦れ違い視力の回復を俟つて更に進行を継続する等事故の発生を未然に防止すべき業務上の注意義務があるのに、之を怠り、単に先行車の尾灯及び道路左側端のみを注視し右前方を確認せず視界のきかぬまま前記時速で進行した過失により、折柄右三差路交差点において道路中央附近から左に向い国道を横断すべく被告人の進路上に走り出てきた山本秀雄(当時六九年)を約七・五米手前において初めて発見し直ちに急ブレーキをかけたが及ばず、自車の左前部フエンダーを右山本に衝突させて路上に転倒せしめ、因つて同人に対し治療約二ケ月半を要する右大腿左下腿骨折等の傷害を負わせたものである。」というのである。

よつて、被告人に本件事故につき右各訴因にかかげられている業務上の過失があつたかどうかを検討する。

一、山本秀雄の司法巡査に対する供述調書と第三回公判調書中同人の証言部分、第四回公判調書中証人天津充の供述部分、第一一回公判調書中証人山田信行の供述部分と同人に対する証人尋問調書、証人尾形磯茂の当公廷における供述、司法巡査作成の実況見分調書、検証調書二通、鑑定人後藤賢二、同行武秋吉作成の各鑑定書、医師上野潔作成の診断書、被告人の当公廷における供述第六、七回公判調書中の各供述部分司法巡査に対する供述調書を綜合すると、(一)本件現場は歩車道の区別のない幅約九・六米(両側各一米位の非舗装部分を除いて中央はコンクリート舗装)の直線平坦な国道であり、県公安委員会による速度制限はなく(普通自動車の制限最高時速は六〇粁)、普通人通りは少いが車輛の交通は頻繁なところである(午後六時から八時までに行われた第一回の検証の結果記載の調書には「あらゆる車輛が制限速度前後のスピードで一分間三〇台位往来していた」とある)。国道両側はおおむね田圃等の空地に連り人家はまばらで街灯などの照明は全くなく、そのため同所は右側の狭い道路と丁字路をなしているのであるが、暗夜には地形上の関係もあつて通行中の車上から同所が丁字路であることは一般に知りえない状況にある(しかし本件後同所には横断歩道、灯火のある信号機が設けられ状況は一変している)。事故当時は一時小雨もあつた曇天の暗夜で、交通車輛は多かつたが現場手前二〇米位のバス停に数名の佇立者があつたほか通行人は見当らなかつた。(二)被害者山本秀雄は、当日附近の足立温泉に遊びに行き酒二合位をのんで帰路につき途中国道を渡ろうとして本件事故に遇つたものであるが、詳細は不明であるが国道右端から左に向い途中立止つたりせずに通行中の車輛の間を小走りに通り抜けようとしたものと推認される。(三)被告人は自動車運転の業務に従事するものであるが、事故当時普通乗用車を運転して国道左側部分を先行する自動車に一五米乃至二〇米の間隔をおいて時速五〇粁前後の速度で進行していたが、事故現場にさしかかるころ反対方向から連続して進行してくる自動車(各証拠により、一〇台前後、その前照灯は下向など離合の際必要な操作をしているもの、していないもの半半位、速度は時速五〇粁前後、各車間距離は二、三〇米とみるのが適当である)とつぎつぎに離合することとなりその前照灯に眩惑されないため適宜視線を左にそらしながら進行するという状況であつたところ、前方道路中央の若干左側の地点を小走りに左に横断している被害者をやや右斜前方七・五米の距離に接近してはじめて発見し、急拠ブレーキをふみハンドルを右に切つて避けようとしたが間にあわず本件事故となつた、ことが認められる。

二、本位的訴因は、右事故は被告人が前方注視義務を怠り被害者の発見が遅れたことによつて発生したものであると主張する。

そして、同訴因には被告人は「道路左端と先行自動車のみ注視し道路右方に対する注視を怠つた」とあるが、被告人はわき見運転をしていたのでなく、前示のように対向車の前照灯に視線を向けると眩惑され視力を失うので適宜視線を左にそらしながら運転していたものであつて、これは夜間対向車と離合する際一般にもとられているところであり(後藤賢二の鑑定書)、そのこと自体はむしろ状況に応じた態度として別段咎むべきものではない。

ところで右の被告人のように暗夜対向車と間断なく離合を繰返しその前照灯等により道路右方の視界が妨げられるという状況においては、道路右端から小走りに横断してくる歩行者は、対向車との位置関係、対向車の前照灯の光軸の方向等により対向車の前照灯を横切る黒い影として瞬間的に認めうることもあるが、一般的にいつて右方においてはその確認は不可能もしくは極めて困難であり歩行者が進路前方(それも本件の場合先行の自動車との距離以下に限定される)に現われてはじめて発見できるものであることが認められる(各鑑定書)。しかも本件においては被害者(その供述によれば服装も光線の反射しにくい黒ずくめのものであつた)が対向車の間を小走りに進んできたことが推認されるだけで対向車とどのような位置から出てきたかなどが一切不明であるから、右訴因のように被害者の早期(被害者がもつと右方にいたときということにもなる)発見が可能であつたとして、被告人が前方注視義務をつくさなかつたことにより被害者の発見が遅れたと断定できるものかはなはだ疑問といわざるをえない。しかるに他に被告人が前方(右方)注視義務を怠つたために被害者の発見が遅れたと確認するに足る証拠はない。また被害者発見後の被告人の措置に過失のあつたことも認められない。したがつて本件事故が被告人の前方注視義務違反を原因として発生したものということはできない。

三、それでは、被告人に「一旦停車もしくは最徐行」の義務違反はなかつたか。

しかし本件のように暗夜自動車を運転して進行中に連続して走行してくる対向車と離合を重ねる場合運転者は、右対向車の進行部分である道路右方の見透が一時不充分になるからといつて、特段の事情もないのに、歩行者が右対向車の間を走り抜けいつ進路にとび出してくるかも知れないことを予想し、その度毎に最徐行をして事故発生を未然に防止しなければならない業務上の注意義務があるものとは解されない。当時手前のバス停に数名の佇立者があつたというに過ぎず他に通行人は見当らなかつたことでもあり、本件において被害者の横断を予測すべきであつた事情は何も認められない。とするとこの不測の事態に備え一旦停車もしくは最徐行すべき義務ありとして被告人を問責することはできない(被害者は飲酒の影響かで交通状況の判断を誤り危険な横断をしたのであろう)。

ところで予備的訴因が、被告人は「対向車の前照灯に眩惑され視力を奪われて一時前方の注視が困難な状況に陥つた」と主張する点は前示認定に反し認められないし、したがつてこれを前提とするその過失の主張も採用できない。ただ現場附近で被告人が道路右方の注視が充分にできない状況(右訴因のいうように眩惑されたのとは異り進路前方、左方は充分に注視できたのである)のまま、「一旦停車もしくは最徐行」しなかつたことはそのとおりであるが、これが本件の具体的状況のもとにおいては過失とならないこと右に述べたとおりである。

以上、本件交通事故について証拠上被告人に各訴因主張の過失はいずれも認められないから刑事訴訟法第三三六条により無罪の言渡をすることとして主文のとおり判決する。

(裁判官 芝忠徳)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例